茶席を持つこと、釜を掛けること。

良く行くラーメン屋さんのお話です。

マスターは若い頃都内の高級ホテルで中華料理の修行をして新潟市に戻ってこられ、ご夫婦でラーメン屋さんをやっておられます。
何かの折りには出かけていくのですが、市内に良い店があれば、いろいろと食べ歩いている中でも味は五指に入るかな、と勝手に思っています。
また、近くに高校があり、学生さんたちにはワンコイン(500円)でおいしいラーメンを出しています。

そのお店にはご主人が書かれたとおぼしき、
これでいいということはないが これが今の私の精一杯の姿です。」という相田みつおさんの詩が飾ってあります。
こんな低料金で、結構な味を出していると思うのですが「これでいいということはない」と謙虚な姿でラーメンを出して下さっていますし、「今の精一杯」という気持ちもうれしい次第です。

茶席を掛ける際には、来て頂けるお客さんに喜んでもらえるよう「精一杯」にがんばります。
また、常に「これでいいということはない」とも思って道具組をされていると思います。
ですから「今日は500円の席だからこんなでいい。」とか「学生の茶会なんだからこれで充分」などと夢にも思わないでしょう(ネ?)。

そのラーメン屋さんはきっと学生さんたちに「中華料理ってこんなにおいしいんだよ」と知ってほしくて低価格にしてるんじゃないかと思います。料理のおいしさや、素晴らしさやそれを出す側の喜びまで知ってほしいんじゃないかと勝手に思っています。「食事を作って出して食べるってこんなにすばらしいんだよ」って。そんなお店に思えます。

茶席の御客様は、その席のためにわざわざ着物を着たり(髪などもセットもして)、場合によってはタクシーで時間を割いて来て下さっています。決して500円ではありません。
その方々に「この程度でいい」席をやっていいものでしょうか?
茶湯がこんなにすばらしいのだ、と感じて頂けるような席作りをされとこそお客さんも喜んでもらえる。そこには見栄や、自慢は存在しませんし、「今の私の精一杯」であり「まだまだ」といった謙虚な心もあるでしょう。
それを「あんな高い道具を使って。」とか「見せたいのかしらねぇ」等というのはそれを発する人の心が卑しいからなのではないでしょうか。

茶道具の金額の多寡など何を基準に推し量ることが出来るのでしょうか。上は国宝、重要文化財、あるいは「大名物」「名物」「中興名物」までもが道具であるということをご存じないのでしょうか。こういったものはお金だけでは手に入れられないものです。ですから、お金で手に入れられるものは「安い」と言えるのかもしれません。

席主が買った茶道具の値段を忖度しているぐらいなら、良い道具や取り合わせを見せてもらったら素直に喜んだらどうでしょう。茶会であれ、そこに出される道具であれ「一期一会」だったのではないですか?

おいしいラーメンを食べたら「おいしかった、ごちそうさま、また来るね」といえばいいだけなのです。

 


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