Way of tea

茶道、茶湯を英語に訳すときに かつては tea-ceremony と訳していましたが、近年では the Way of tea としても通じるようです。 いわゆる 「道」は日本の様々な事柄の中でも技術や技能ばかりの習得にとどまらず、精神性を磨く内容を海外の方も理解し「道」=「way」と訳しても通ずるようになりました。

裏千家学園の学生の頃、多くの海外留学生とも親しくなり、彼等が人種や国籍を超え茶湯にふれその素晴らしさに感動することは身をもって感じることがありました。彼等は母国に帰りその地での茶湯を行っていることでしょう。

先日、NHK(Eテレ?)でAIで茶を点てる、という番組が放送されたようです。私は見ていないのですが、茶湯が点前の習得や、その技術のみであったなら「人間」が教える必要もなくなる時代がやってくるかもしれません。その人の個性や味わい等とおっしゃる方もおられるかもしれませんが、点前を伝授するには何より正確であることの方が受け取る側、則ちお弟子さんたちにはありがたい物です。

しかしながら果たしてそのような茶湯に魅力があるでしょうか。茶湯の一会に様々な思いを《道具》の取り合わせに託し、少しでもお客に喜んでもらう。そんな「おもてなし」の思いははたしてAIに出来るのでしょうか。

その意味において茶湯は「芸術」に分類されることも多いかと想います。「芸術」は人間にしか出来ない活動ではないでしょうか。ですから茶湯というルールの中で「芸術」をどう表現するかという課題に取り組む、これが「人類」が行う茶湯となっていくかもしれません。至高の課題と言って良いかもしれませんが、面白くもあります。その意味においてはこれは普遍的な課題でしょう。

ともあれ、この境地に至るには少なからず「お点前」はある程度習得をし、行うときには多少間違ってしまっても「間違えた」と気づき、そこそこの修練を終え、自分にも満足のいく取り合わせを考えられるようになり、そこそこ楽しめる《道具》を手に入れた後、やれ「芸術」だ「個性」だ「味わい」だ等と曰えるのではありますが。それが出来ないうちに「たけくらむ」ことはたぶん珠光さんがお叱りですよ。まただからこそ、死ぬまでまたは死んでからも修行の続く終わりのない「道」なのではないでしょうか。

偉そうな書き込みになってしまいましたが、これは自分自身に対する戒めです。どうぞご容赦を。

 

 


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