京都へ行ってきました。昨年の暮れ以来、三ヶ月ぶりです。学生時代を過ごした街は今も懐かしく、筆者を迎え入れてくれます。
流行不易、うつろうものと変わらないものは、表裏一体、茶湯は変わらないようで、誰もが知るように利休の茶と今のお茶は随分と変化したことは容易に分かるのではないでしょうか。変わらないようでも京都の町も変化していますし、茶湯も変化をしているのでしょう。
先週、ブログを上げた日、日中は外国の御客様にお茶を差し上げていました。イギリス人とドイツ人三人、日本の文化に大変興味があったようで興味深く話を聞いて下さいました。
日本人だから和の心が分かり、外人だから茶湯は理解できない、などと言うことはありません。茶湯の「おもてなし」の心は普遍的で世界共通だと想います。
だからこそ茶湯は外国人にあわせる必要もなく、今の人たちにわかりやすくするばかりが、未来のための茶湯ではない気がします。
その入り口の敷居を下げるのではなく、上がりやすく踏み台を着ける努力の方が喜ばれるはずです。
我々が守るべき茶湯の本質は少しも変わることはないと思います。そのドイツ人に尋ねられました。「茶湯を行う上で大切な心とは何ですか」と。
あまりに平凡かもしれませんが「和敬清寂」と「一期一会」であると答えました。
その心はことに「敬」。お互いを尊敬し合う心ではないかと。自らを尊敬できずに相手は尊敬できないのです。「自分なんか」がするお茶に人をまねいでは申し訳ないでしょう。なぜなら、その程度に想っている自分に招かれて時間を割き出かけていく客人に失礼ではありませんか。
もちろん自慢をせよと言うことではなく、その一会を精一杯「これで最期」の茶であるという気概でおもてなしをすることが大切なのだ。とお話をしました。
別れ際には「Auf wiedersehen」(またお会いしましょう)と手を振りましたが「Auf nidersehen」(もうおあいすることはありません)なのかもしれないのです。けっして逢いたくないのではなく、もう逢うことが出来ないかもしれない。この思いで今日の出会いを「日々是好日」と想い、過ごすことなのかもしれません。もちろん先日京都でお目にかかり、またねと別れた人たちとも。