(茶道具考古学時代)
茶を食品として人類が手に入れて六千年ともいわれます。飲茶が文化として書物に現れるのは前漢時代、宣帝(BC59~BC52)の「僮約」という奴隷売買契約書、のなかに「茶」を買いに行くという記述があるそうですが、やはり世界初の茶の総合書は中国、唐時代「陸羽」の著した「茶経」(AD760年頃)とされています。
茶経の中に記述された「具」はその当時の茶の様子を伝える貴重な資料でしたが、近年中国、陝西省西安郊外(唐代の長安跡)法門寺の地下から発掘された当時の茶道具と思われる品々は当時の喫茶の風習を伝えるものとして、偉大な発見でありました。
陸羽の没(804年)以後日本では遣唐使の廃止(894年)などがあり中国もやがて五代時代を迎え茶の交流は途絶する感がありました。
中国では極端に言えば王朝が変わる度に茶の飲み方が異なっていた、ともいえます。
(本朝茶道黎明期)
本朝において比較的早い段階での茶に関する記述は聖武天皇の天平元年(729年)「季御読経(きのみどきょう)における「引茶(ひきちゃ)」として春秋二季に百僧を請じ国家の安穏を祈願させ、後に茶を振る舞ったことから「奈良時代」には始められていたことが伺われます。もっとはっきりした記述は「平安時代」になってからのようですし、最近では一定の作法を持って茶が供されていたであろうと考えられています。
殊に「嵯峨天皇」の弘仁年間(810~24)頃の「凌雲集」に納められた漢詩の記述が著名です。
茶経の頃は「団茶」であったものが「宋」末期芸術皇帝とも呼ばれた「徽宗帝」が著した「大観茶論(AD1107頃)」では抹茶が語られます。
宋代末期の喫茶法であった抹茶を茶の苗木(近年まで種子を「漢柿蔕茶入(あやかきのへたちゃいれ)」と呼ばれる唐物茶入に入れて、と考えられていたが、)でとともに本国にもたらしたのは「栄西禅師」で1191年の事とされています。
栄西からその種を先ほどの茶入に入れ受け継ぐのが「明恵上人」とされ、後に京都北部の栂尾(とがのお)高山寺に茶園が作られる元となっていきます。後に「本茶」と名付けられ他の産地の茶「非茶」と区別され後に述べる闘茶に登場します。
(近年DNA鑑定により、栂尾の茶の木は平安時代に日本に入ってきた種と同様であることが分かりました。)