(侘び茶の発生)
「珠光(1423~1502)」は奈良称名寺の住職から還俗して、かの一休禅師に参禅、茶は能阿弥の弟子とされています。華やかな唐物荘厳の書院台子の茶に対し、初めて和物茶道具をも取り入れ使う事など、いわば「質実剛健」を旨とする茶を始めます。
唐絵を掛けていたそれまでの掛け物から一休から拝領した「圓悟克勤」の墨跡を使う茶を始めることになります。
一般には「質素である茶」という作られたイメージの強い侘茶ではありますが珠光自身「松花」の茶壷、先ほどの「圓悟克勤の墨蹟(流れ圓悟)」「新田肩衝」「珠光文琳」など数多くの「名物」を所持しています。
一方で奈良風炉と呼ばれる「土風炉」の創作。木地の物(釣瓶の水指)などや「備前焼」「信楽焼」などそれまで使われることのない見立て物、創作すら使われだします。
そういった侘び茶流行の兆しに対して、珠光がその弟子、古市播磨(澄胤)に宛てた手紙というのが伝わっており、珠光の茶の湯の精神を伝える物でしょう。(原文を載せます。)
「此道、第一わろき事ハ、心のかまんかしゅう也、こふ者をはそねミ、初心の者をハ見くたす事、一段無勿体事共也、こふしゃにハちかつきて一言をもなけき、又、初心の物をはいかにもそたつへき事也、此道の一大事は和漢之さかいをまきらかす事、肝要ゝゝ、ようしんあるへき事也、又、当時、ひゑかるゝと申して、初心の人体が、ひせん物・しからき物なとををもちて、人もゆるさぬたけくらむ事、言語道断也、かるゝと云事ハ、よき道具をもち、其あちわいひをよくしりて、心の下地によりてたけくらミて、後まてひへやせてこそ面白くあるへし也、又、さハあれ共、一向かなハぬ人体ハ、道具にハからかふへからす候也、いか様のてとり風情にても、なけく所、肝要にて候たゝかまんかしゅうかわるき事にて候、又ハ、かまんなくてもならぬ道也、銘道ニいわく、心の師とハなれ、心を師とせされ、と古人もいわれし也、」
という言葉を残しています。
要約すれば、
「茶道というのは一番悪いのは自らに対する「傲慢」や「自己満足」です。自分より茶道の出来る人に嫉妬し(悪口を言い)初心者を見下す事はもってのほかです。
お茶の出来る人には近づきになり自らの未熟さを反省し巧者のようになりたいと切望し、また初心者にはよく教えてやって育てていかなければなりません。
茶道では「和漢の茶道具」をうまく取り合わせることが肝心です。特に気をつけるべきです。
最近では冷え枯れた雰囲気(いわば見立ての茶道具や創作道具)が流行して初心者までが備前、信楽等という、究極の見立て茶道具(創作道具)を使い人々から到底認められないような高い境地に達した、かのような錯覚を覚えるのは言語道断です。
「枯れる(見立て道具を使える)」というのはちゃんとした良い道具を山ほど所持した上に、その味わいや良さをよくよく理解し、心の教養や素地を高めた上で、その後冷え枯れてこそ趣がある物です。
又そうであればこそ、なんとしてもそうできない人は見立てなどに頼らないことです。
鉄瓶でお茶をやっていたとしても、そのことを恥じ入り「いつかは」という向上心を持つことが肝心です。
自己欺瞞をし「私がやるお茶なんだから」などと客のことなどかけらも考えない等という事が悪いことです。
かといって自らの茶の湯に「自信や誇り」がなくても出来ない物です。
格言にも「精神の向上を目指した自らの心の指導者になれこそすれ、心情に振り回されてはならない」と昔から言われているではありませんか。
筆者流に現代に置き換えて「あえて」意訳をしてみました。皆さんはどうお考えになりますか。
閑話休題、侘び茶の発生により茶道具史は大きく変化を遂げます。