(利休の登場)
まるで村田珠光の弟子のようにいわれる「武野紹鴎」は実は村田珠光の没年に生まれた人物です(1502~1555)が実は珠光の弟子「十四屋宗悟」につき、茶の修行を積みます。
武野紹鴎が殊にその名を残すのは弟子とされる、利休の存在によるところは大きいでしょう。良き弟子を育てるという事は師匠にとって最大の関心事となるのではないでしょうか。
紹鴎はその名を「紹鴎袋棚」や「紹鴎水指棚」という台子を離れた棚を創作して侘び茶を一層進めることになります。台子の茶から、草庵の茶へ人々の関心が移っていく中で「高麗茶盌」が注目されだし、主流となっていきます。
利休の登場により茶道具は革命的に変化していきます。
卓越した想像力と多くの技能集団により数多くの新しい茶道具を作り出していきます。
最も有名なものは「長次郎」を始祖とする「楽茶碗」や「辻与次郎」の「京釜」「宗四郎」の「土風炉」と共に好みます。
「竹」の茶道具をより進めた形の「茶杓」や「花入」「蓋置」魚篭から取り出した「桂籠」などはそれまでの茶道具からは想像もつかないものではないでしょうか。
「銘」の活用も茶道具にとって大きな影響を残すものの一つでしょう。点前の改革なども含め茶の湯を今に残す工夫をしていったことは万人周知のことでしょう。
(秀吉の朝鮮出兵と渡来陶芸家)
利休没後、二度にわたり朝鮮出兵を行った秀吉は当初の目的を果たせず終わりますが、結果として「萩焼」「唐津焼」「薩摩焼」はじめ九州の各地に残る窯場はその後長く続く江戸時代、幕藩体制の中で庇護されて現代まで存続する基となります。江戸時代に入って対馬藩がその主たるかかわりをもつ「御本茶碗」へも繋がっていきます。
(桃山の茶道具と織部)
利休茶の湯の頂点の中で数多くの弟子が生まれています。
そのなかで茶の湯の創造的部分を襲ったのは「古田織部(1543~1615)」でしょう。
その名を残す「織部焼」をはじめ「志野焼」や「美濃伊賀」は織部の影響を受けたものでしょう。
高麗茶碗も例外ではなく「御所丸茶碗」はその系統であることは間違いではないでしょう。「ひしゃげたる」やら「へううげたる」といった言葉で表される躍動した桃山陶器の代表です。