(遠州の登場)
江戸時代に入り新たな茶の湯創造者として登場する「小堀遠州(1588~1647)」は安定しだす江戸時代において新たな茶の湯形態を作っていきます。
彼の選定し「銘」を付けたものが「中興名物」という新たな名物を生み出していきます。
藤原定家に私淑し掛け物として「色紙」を掛けたり、好みによって焼かせた高取焼や瀬戸焼、膳所焼などの陶器を指導、後に遠州七窯(異説もあり)と呼ばれる国内陶芸にも影響を与えました。また「祥瑞」や「古染付」と呼ばれる中国へ注文したり、当時輸入され始めたヨーロッパ陶器である「和蘭(オランダ)」物の茶湯への使用を試みたことはまったく新しい茶の湯への挑戦といえるでしょう。
同時期に移入されたと考えられる「交趾」物の香合、「七宝」の茶道具なども遠州の趣味を色濃く残した物と考えられます。
(綺麗寂、金森宗和と元伯宗旦)
「金森宗和(1584~1656)」今までは公家との関係が重要視されてきたが会記からはむしろ武家とのかかわりが深い。彼の指導による「御室焼」即ち「仁清」はその後の京焼きに残した影響は多大なものがあります。
金森宗和と対照する存在として比較されるのは利休の孫「千宗旦」です。利休の茶の復興と更なる侘び茶への傾倒を深めていきます。そんな中で見出されるのが朝鮮半島からの渡来人「飛来一閑」による「一閑塗」でしょう。
(光悦、乾山)
江戸時代初期の京都文化村「鷹が峰」に集う芸術家集団の中から、「本阿弥光悦」は新たな楽茶碗を製作します。また尾形光琳の弟「乾山」は独特の生地に兄の絵を加えるという方法で新たな「乾山焼」を作り出していきます。
(その後の道具)
江戸の初期、寛永から元禄にかけ、茶の湯は益々盛んになっていきますが、此の時代までに現れた「道具のバリエーション」がその後数百年行われる茶の湯の道具の根幹をなします。
極端に言えば、今後現れる陶磁器はこれらの陶磁器の写であることが多く、この間の茶道具をよく知ることによって様々な手分けが出来るかと思います。
わずかなページで茶道史を解ききることは困難なので、個々の茶道具について次回からお話ししたいと思います。
江戸後期、千家では「七事式」の制定が行われ茶の湯の多様化、一般化が進む一方、「松平不昧」による「古今名物類従」など茶道具の分類、研究も進みます。
江戸時代の終焉と共に一旦、茶の湯は廃りますが、明治後期から大正にかけ、政界財界人が「数寄者の茶」を展開し「伝来」の茶道が高騰していく一方、「学校茶道」や婦人の茶が盛んになり、殊に戦後、新しいメディア、ラジオ、テレビによる普及効果で、爆発的に茶の湯人口が増え大衆化する中で安易な茶道具も大量に造られるようになっていきました。
わずかなページで茶道史を解ききることは困難なので、個々の茶道具について次頁からお話ししたいと思います。