前回の茶道史の項目でお話したとおり、茶の湯が発生する室町時代の茶の湯では「宋」「元」の絵画即ち「唐絵」が中心に用いられそれを掛ける空間として「書院建築」が生まれたとも言われます。前の項にも触れた「大観茶論」の「徽宗皇帝」は芸術皇帝、風流天子と呼ばれ、殊に絵画に優れた才能を発揮するのですが肝心の政治の方面では「北宋」を滅亡に導くことになります。現存する国宝の「桃鳩図」はその作品の白眉といえるでしょう。
徽宗自らその年号である「大観」の年号と「花押」でそれと記し足利義満の「天山」の鑑蔵印が押されています。
足利義満はまた「牧谿」の作と伝えられる「瀟々八景(しょうしょうはっけい)」という元々「絵巻」状の物を入手、切断し八幅の掛け物として今に伝わっています。
その他「梁楷」「玉澗」「馬遠」など重文、国宝級の絵画の枚挙にいとまがありません。
勿論これらの掛け物は「台子書院の茶」にこそ相応しい物で、取り合わす道具は「唐物」を中心に台子などで取り合わせ書院での茶の湯が楽しめる方は結構ですが、いわゆる「侘茶」には不向きな物です。せいぜい下がって「盆点(由緒のある唐物茶入を使う)」ぐらいで精一杯でしょう。また国内の画家の物も「雪舟」「如雪」「周文」「三阿弥(前述能芸相親子)」等の物も登場しますがやはり扱いは同様に扱うと良いでしょう。
唐絵の逸話として「徐煕の白鷺の絵」は足利義政から珠光が賜り、一文字なしの表具に仕立てました。後に前述の古市播磨から松屋源三郎に渡り 「松屋三名物」の一つとなました。利休はこの表具をして「数寄の眼目」と称し賞賛したとされています。表具もまた重要な要素という事の現れでしょう。(残念ながらこの軸は明治十年以降、伝存不詳です。)