では何を掛けたら良いのか?というと、最初に求めるのであれば「禅語」といったところが茶席には無難です。
「懐紙」や「消息」などを掛けることもありますが、なかなか入手も困難ですし高価でもあり、まずは難の無いところから始めたらいかがでしょうか。
「禅語は難しすぎて」とよくおっしゃる方がいらっしゃいますが、茶道の精神は茶禅一味などといって、その全てとはいいませんが「禅」を同時に学ぶことによって解釈されてきた物ですから先ずは少し勉強するつもりで、一行書の語句から理解を初めてはいかがでしょうか。
最近は禅語の解説書も数多く出回っておりますので、それらを参考に自分の心境にぴったり合う語句を心に止め、その語句の書かれた物を捜す、あるいは書いていただくといった態度が一番望ましいように思います。
態度と申し上げたのは、席に入り先ず一番最初亭主より先に客が頭を下げ挨拶をする対象が掛物であります。これは単に「文字を鑑賞」するのではなく、語句を書かれた方そのものを軸を通して人格化し、本人を目の前にした気持ちで「挨拶」をする、という意味があります。
そういう訳で書いた人が「万人」とはいいませんが尊敬に値する人であることが大事なのです、単に「幾らで買った価値のある軸」なのではないのです。よく「書」を嗜む方が、自分の書いた物、あるいは身内の書いた物を表具して人を招き、席に掛けるといったことを耳にします。しかしこれは「私に(身内に)頭を下げよ、尊敬しろ」と暗にいっているのも同じ事で甚だ不敬な事と言わなければなりません。「歌切」とは意味を異にします。
同じ様にコピーされた物、複製の軸を掛ける事、これもやはり「勉強の為のお稽古」以外は避けなければなりません。コピーという物は、たとえどんなに有名な軸であってもまた、限定版であっても、コピーに人格はありません。ただしコピー技術の素晴らしさ、日本の技術革新に頭を下げさせたい方はどうぞご遠慮なく。
どんな方が書いた物にするか、あるいは書いていただくか、と言うことになります。とにかく「古いような字の書いた物があるから」といって掛けられる方もおられるようですが、前述したように人格を掛ける、といった意味もありますし、こと茶道に関する事ですから、茶道を「道」として導かれる方」「茶道を正しくお伝えになる方」などが、最もふさわしいように思われます。
茶の湯の礼法というのは元々中国の禅院で行われていた茶礼を道具と共にわが国に持ち込んだのが始まりとされていますし、侘び茶の祖ともいわれる村田珠光が、大徳寺一休禅師に参禅し、印可を受けるに当たり「圓語の墨跡」を賜り、これを掛け茶湯をした、といったところから茶湯と墨跡の関係が生まれたと考えられています。
その後茶の湯を志す者、茶の宗匠はことごとく大徳寺に参禅する事を慣わしとして、今に至っているのです。