最初から「墨跡」を望むのも結構ですがまずは入門編として、たとえ末寺であっても大徳寺系のお寺を第一とし、次に同じ臨済派系の「妙心寺」や京都五山など茶湯に関係の深い寺の物を掛けるとよいでしよう。
「うちは宗旨が違うから」といっても「南無阿彌陀仏」や「南無妙法蓮華経」を掛けても一寸お茶にならないのは想像がつきますよね、ただし追善や法要などの時は構いませんけれども。また同じ禅宗でも黄莫山萬福寺系はお茶に関係があるといっても、お煎茶の方に関係が深く、それこそ「宗旨違い」なのであまり用いません。
また後者である茶の宗匠方といえば、侘茶の祖「村田珠光」利休の師「武野紹鴎」茶聖「千利休」「利休七哲」「小堀遠州」「片桐石州」「元伯宗旦」「宗旦四天王」など、これらのものはまず入手はしにくい部類でしょう。
時代を下がり、各歴代お家元や名だたる宗匠、数奇者などの物もやはり同様でしょう。
現在のお家元や御先代のお軸ならば比較的手には入りやすいかとは思いますが、なかなか高価なものである事はいなめません。
だからといって「尊敬する自分の先生」そのまた先生ぐらいでは人を呼ぶに当たり遠慮しなければなりませんし、もし弟子がそのような事をする、などといったら師匠としておおいに窘めなければなりません。一流派を統ベ、茶道に関し世間に通る見識を持ち合わせるような方でないと掛けにくいものです。
ただ、「御家元の軸」があるからと言ってそれが決して頂点ではありません。歴代の御家元、宗匠、またそれらの方々が「師」として参禅された「禅僧」の方々の物、そういった物にこそ本来の伝統を背負った茶の湯の重みが出ることを忘れてはいけないと思います。(例えば濃茶の席など)そういった禅僧の書かれた「墨跡」であれば流儀を越えて尊敬に値する「茶の掛け物」ともいえるのではないでしょうか。
まずもって「大徳寺系の老師か和尚」のものといったところが恥を掻かずに済む線といえ、人格面からいっても無難なのではないでしょうか。
先にも述べましたが大徳寺は茶道とは特に関係が深く茶湯になじむ語句を多く書いてくださってもいます。