(抹茶用茶碗の始り、色彩は白、青から黒へ【第一期唐物茶碗】)
中国で喫茶の風習が現れるのは古く、漢代のころには「金、銀、玉、硝子等」の茶碗が使われていたようで、すでに「托」即ち後の「天目台」に相当する物が添えられていました。おそらく「団茶」の時代から始まり「抹茶法」が行われ、その後「急須」の出現により「煎茶法」によって「茶葉を煮出した摘出液」を呑む形式が成立するまで、茶碗の中で茶を仕上げ、客に饗ずる事になります。
ですからその発生から茶碗は茶を喫する器のみならず、「茶の調整器具」の役割も担っています。やがて金属や硝子の茶碗から陶磁器の茶碗へ移行していきます。
中国、唐代に著せられる「茶経」にすでに陶磁器の茶碗は登場し「秘色青磁」といわれる「越州窯」で焼かれた初期の青磁が使われていました。「白磁茶碗」の記述も見られますが陸羽はあまりよい評価はしていません。これには、「白茶」と呼ばれた当時のお茶の色にマッチした茶碗が「青磁茶碗」だったためだとも思われます。同時代の平安時代日本でも「青磁、白磁」の茶碗が使われていた記述が残っています。
「陶磁器としての青磁」は次の北宋時代に最も優れた物が作り出されていきます。その青が鮮やかな「雨下天晴」と知られる「官窯青磁」と呼ばれ、門外不出の青磁でした。
本朝にも青磁の茶碗としては「官窯青磁」の次に美しいといわれる「砧青磁」がもたらされ「馬蛉絆」「満月」などが有名です。そのほか元時代といわれやや緑がかった釉薬の「天竜寺青磁」明時代の「七官青磁」などがありますが、茶碗はほとんど見かけることはありません。
朝鮮半島に伝わった青磁は「高麗青磁」と呼ばれ「象嵌」や「陰刻」と呼ばれる技法を用いたりしますが、すでに「青磁茶碗」の青白色は廃り黒い茶碗へと移行していく中、茶道具として用いられることは減っていきました。