近年における御本茶益の位置付け(江戸初期、第二期朝鮮茶咎)
次の時代に現れたと考えられているのが「堅手茶碗」。逆に和手(やわらかで)と呼ばれる「熊川(こもがい)」や「玉子手」です。ついで利休の活躍期、頃に登場する物に「蕎麦」「斗々屋(ととや、魚屋とも)」「柿の蔕」があり注文による茶人好みの茶碗が焼かれ出したのでは、と考えられ始めています。
明らかに茶人の注文として織部の登場により登場する「御所丸茶碗」があり、その躍動した形は日本の桃山茶陶に直結する物と考えられます。同時期には「金海」や「彫三島」などが移入されていきます。少し下がって「黄伊羅」「伊羅保」のち「釘彫伊羅保」となりすべて茶人の注文であり他の高麗茶碗より時代が下るため「薄茶用」とも言われる所以であり御本と同時期の物といわれています。
いわゆる「御本茶碗」は徳川三代将軍家光の立鶴の下絵を元に押し型を作り、「御本手(ごほんで)」が始まったという伝節があります,ほぼ同じ頃、「朝鮮の通役」の意味もある「半使」が対馬藩を通し我が国にもたらされ、釜山周辺で焼かれた「朝鮮茶碗」です。
御本との区別は難しいとされこれらを含め「御本」と言っても差し支えないように思われます。今では伝来を元に分けている様です,「本来の高麗茶碗」を写した「御本三島」「御本呉器」「御本刷毛目」「絵御本」などがあります。殊に江戸時代に入り朝鮮との交易の窓口となった対馬藩では茶碗役人とも呼べる人々を派遣し茶人好みの茶碗を焼かせたものなどは「茂三(もさん)」「玄悦(げんえつ)」などといった名称を「対州御本」として残しています。
やがて和物茶碗が盛んになり、享保二年(1717)に御本はとだえる事になります。
(今高麗、新高麗)
戦後の茶の湯ブームにより「大韓民国」に発注して作らせた茶碗を「今高麗、新高麗」と言います。写物、教材としての価値で見ておいた方が無難です。本物を見てから善し悪しを判断しましょう。茶会などに使用する際は「銘」を頂いてから、と考えましょう。
作家名があるからと、使用できる物ではありません。。