「楽茶碗」
極論をする今までのべてきた茶碗が「濃茶茶碗」と考えて良いかと思います。即ち基本的には「伝物専用」の「唐物茶碗」次に「高麗茶碗」までが「第一義」的な意味合いで「濃茶茶碗」です。
これらが薄茶が歴史上確認されるまでの茶 であるという事実を基本にすれば、まずはそういっても良い、と考えられるといってよいのではないでしょうか。しかし「山上宗二記」によれば、すでに利休時代には「貴人用茶碗」としての「灰被天目」を除き、天目の使用は廃っていますし、徐々に「第一期唐物茶碗」は省みられないようになり、茶道具の第一線から退いていきます。
この時代、会記やその他の記述から果たしてどのような「茶」をもって人を招いていたのか、即ち「濃茶」なのか「薄茶」なのかという点についてですが、おそらく「薄茶」というのは、「一服一銭」の庶民の茶から、茶席に取り上げられたものと考えられるようになってきた今「主たる茶は濃茶」であったろうと想像されます。
では、「楽茶 は「濃茶」の茶 と達うのか」、など多くの反論があると思います。ですから極論とし「第一義」的にと申し上げています。
利休が彼のプロデュースした茶 が「濃茶茶碗」と使用された不思議を解く必要があります。これは皆さんが良くお悩みになっていらっしやる、これは「濃茶」に使えるとか「薄茶用」だとかおっしやる大雑把な分け方のヒントの一つの方法です。
実は「楽茶碗の登場」は革命的な事で、従来は「唐物」または準唐物としての「高麗茶碗」といった「高価で時代を経たもの」が重要視されていたのに対し「今焼かれた新しい創作物」が使われたということで一層佗茶の傾向を深めていく結果となりました。
これは実に画期的な事でした。利休の指導により帰化人「あめや」に始まる「樂家」が焼いた当時は「今焼茶碗」とよばれ、後に「楽茶碗」と呼ばれる茶 が濃茶に登場したのです。
最近の研究ではまず「赤茶碗」が焼かれ、おそらく後に述べる「瀬戸黒茶碗」と呼ばれる「引出黒」の技法を収り入れ、やや遅れ「黒茶碗」が登場することのようです。
楽焼初期の研究については他所に譲ることとして、茶道史の欠かせない項目としての「利休」の登場と「楽茶碗」についていささか大袈裟かも知れませんが、少し考察を巡らすことにしたいと思います。