「楽焼」と呼べるのは「楽家」と「脇窯」「家元手捏」だけ
茶湯の為に焼かれ四百年、茶湯茶碗としてその中心にいた「楽茶碗」は侘茶の最上の茶碗といって良いでしょう。それに続く歴代も研讃を重ね、個々独自の境地を醸し出しています。
純粋な直系である楽焼の系譜は昭和三十年に樂家十四代 覺入によって公開された「宗入文書」により初期の複雑な経過を明らかにしてくれています。
初期の系譜は別として基本となる「長次郎」「田中常慶」「三代道入(のんこう)」「四代一入」「五代宗入」「六代左入」「家七代長入」「八代得入」「九代了入」「十代旦入」「十一代慶入」「十二代弘入」「十二代惺入」「十四代覺入」「十五代=当代吉左衛門」は千家歴代との対比を加え、少なくとも名前だけでも覚えておきましょう.。また出来れば本物にふれる機会を多く持たれることをお勤めします。
「脇窯」と呼べるのは
先に述べた「宗入文書」が書かれる経緯の一つには樂家四代一入の跡目に娘婿である宗入がなおり、一入の庶子である「一元」が母の親元である「玉水」に移り「玉水焼」を始めるなど複雑な家庭環境を整理するためにも書かれたのではないかと考えられます。「一元」を初代としこの「玉王水焼」は楽家の脇窯とし、「一空」「任土斎」以後八代までつづき閉窯します。
また「一入」の弟子である「大樋長左衛門」は「裏千家四代仙叟宗室」の加賀前田家仕官にともない金沢の「大樋村」に寛文六年(1666)開窯したといわれ、一入より「飴釉」の釉技を貰い受け、以後今日まで十代を数えています。そしてこの二家のみが「楽家脇窯」と呼ぶことが出来ます。
家元、茶入による手捏(てづくね)茶碗
手捏のはじまりは「本阿弥光悦」にたどり着くのでしょうか。「常慶」「道入」の手ほどきによりその卓越した技量で作り出された茶 は楽歴代の茶 とも違う雰囲気があります。「国焼国宝茶碗」二つの内一つは光悦作の「不二山」であることでもよく分かると思います。
在京の各家元の「手捏茶碗」は「楽家」の土を用い「楽家」で焼かれた物がほとんどです。手すさびとはいえ、これらの茶 の証明は「楽家」によって「何代の土と釉」が明らかにされるのだそうです。