その他「準楽焼」
いわゆる「楽焼」の技法はいたって容易な陶器なので楽家以外でも多くの名工を生み出しました。
紫野焼 鶴亭
鶴亭は江戸中期の京都の陶工です。紫野の今宮神社東門前にある門前菓子「焙り餅」の店の主人であったといわれます。文化年間(一八〇四~一八)ごろに大徳寺門前に楽焼の窯を開いたといわれます。黒楽をよく焼き、大徳寺の宙宝和尚筆の「紫の」「紫ノ」の丸印を用いています。
久楽焼
久楽焼の祖は近江国坂本の人、本名木村弥助といい、享和年間(一八〇一~〇四)頃に活躍した「啄元」となのります、その子「久楽弥助」は江戸末期の名工で「永楽保全」と共に「紀州徳川家」に仕え二代目の弥介のとき「永久」の二文字を「永楽保全」と分け与えられ「久樂」を名乗ります。三代の後幕末に途絶えてしまいます。
神楽丘文山
「了入」の弟子ともいわれる「神楽丘文山」が知られます。幕末の陶器書『本朝陶器攷証』ではその作陶時期が文政年(一八一八~三〇)で、一入、宗入のほか道入の写しにも優れ、一二○両の高値で売買されたとも記されています。
文山は作品の多くに自身の名を記さなかったといわれますが、なかには「日本文山写之」の銘をもつものがあり、また黒楽茶碗には「神楽」の印を押したものも多く残されています。
仁阿弥道八
和風化を進める初代「高橋道八」二代「仁阿弥道八」は乾山風、仁清風、楽焼までこなす上手です。
初代道八(一七四〇~一八〇四))は伊勢亀山藩出身の武官に生まれましたが、次男(後の仁阿弥道八)のため士分を離れ、京に出て陶器職人となり、粟田口窯に出て後独立し粟田口に開窯、一家を成した陶工でした。
隅田川焼
尾形周平の門人で、江戸向島百花園を起こした佐原菊塢(さはらきくう)が文政年間(一八一八~二九) に開窯した楽焼で、都鳥を描いた物や都鳥の香合などが知られます。「隅田川」「スミタ川」などの銘印が押されている物がある。
江戸趣味の横溢せるものなり。今戸焼の白井半七の作も隅田川焼と呼ぶこともあります。
吉向焼
吉向行阿が大阪十三で始めたもの。初代行阿は名工で、信州須坂・周防岩国・水戸後楽園でも焼いています。楽焼・交趾写・染付などがあります。
銘には吉向・行阿・十三軒・出藍・紅翠軒・連珠など加あり、後に江戸へ出て没しました。以後江戸・大阪の両方で子孫が業を続けました。すなわち、五代目からの吉向熊山と十三軒吉向です。
その後では楽慶入の弟子であった「小川長楽」は現在三代を数えています。
最後に一言、「楽茶碗」=「濃茶茶碗」の図式を一旦はずし「詫びの極致の茶碗」として捉えることによって自ずとその役割が見えてくるのではないかと思います。