釜は火を掛けなければ役に立ちません。火を掛ける場所即ち風炉や炉が必要になります。
まず、釜については前項でもお話ししましたが風炉でも初期の形状が窺えるのはやはり「茶経」の中に、唐時代の原型が記してあります。この時点で既に灰に方角や事象を表す卦を描く事が記されていることは興味深いことであります。
南浦紹明が宋からもたらした風炉がどのような物であったかはつまびらかではありませんが、その後国産として現れる風炉の黎明期、殊に芦屋初期の釜に添った物に見られる風炉は「唐銅鬼面切合風炉」であったと思われ、その釜のサイズから今想像するよりも相当に大きかったかと思います。また初期のものは唐銅製も鉄製も同じように台子に載せ扱われていたようです。
例えば唐銅でなく同じ時代と思われる鉄の鬼面風炉が後に錆、窶れ(やつれ)た後、風炉の欄干や上部を欠いて「窶れ風炉」としたものが見受けられますが、お気付きでしょうか、その大きさは約一尺二寸余り、最初から窶風炉として造られた訳ではありませんのでその大きな風炉に乗る釜があったのですからかなり大きな物になります。近年はこのような窶れ風炉を写し新たに造られた物も多く出回っていますがその大きさは同様のサイズなのはご存じの通りです。
また現在「不審庵(表千家)」伝来する利休所持と伝えられる真台子皆具の中の鬼面風炉釜は恐らく初期の風炉釜のサイズに近いものではなかったかと思われる物が伝来しています。この釜は、直径八寸六分、という現在の炉釜とほぼ同じサイズになっています。風炉も一尺二寸余と台子に使用した初期の釜は今の風炉釜に比べかなり大きな物だった事が窺える事実ではないでしょうか。
勿論切り合わせですので釜の形状は現在そのまま炉に用いるには違和感があります。しかし炉が生まれた初期の頃は勿論この切合の釜が直接炉に掛けられていたのでは無いかと想像できます。ことほど、大きな風炉だったのですが、この風炉は、まずどこの稽古場でも必ずと云っていいほど存在する鬼面の風炉釜の原型といえる物です。
江戸初期の文献では「書院での台子用」と規定したものも窺える事から、「武家社会」では目上人に用いる「儀礼用としての茶の湯」に用い、多用されたのではないかと想像できます。別名「台子風炉」と呼ばれるこれらの風炉、即ち「鬼面唐銅風炉」は、故に仇や疎かには使えない物だったと考えられます。江戸時代の灰の書にも別格として扱われた様子が伺い知れますし、現に表千家では一般には不用といわれるほど、格式の高い風炉とされています。
では、なぜ今のように「稽古場に一つはある風炉」になってしまったのでしょうか。
第一に風炉釜がセットになっているのでそのまま使える便利さがあった、第二に江戸時代、各藩に儀礼用の風炉釜として数多く存在した、第三に茶の湯が一般化する明治以降、多くの家元が各地で「献茶式」を行い、その際使われた風炉釜(即ち鬼面切掛)が「茶の湯らしい」と誤解された、第四に釜師が風炉、釜共に制作が出来た、その他、戦後普及した、電熱器にとっても都合の良い構造だった。等が考えられます。
しかし、これほど情報と道具が多くある世の中になったのですから、唐銅鬼面風炉は他の風炉と区別し「別格」として扱われることをお勧めします。
同じく切り合わせとして他に朝鮮風炉、琉球風炉などがありますが格式としては何れも鬼面風炉に比べ、軽い物になりますので「行」格の風炉として用いられます。
室町後期、奈良で新たな国産の風炉が造られます。
侘茶の祖と言われる珠光あたりの発案だろうとされる「土風炉」の発明です。「唐銅切合風炉」の形状を模した透木風炉から始まるのですが、「鬼面鐶付」や「欄干(鎌を掛ける部分)」などは焼き物の特性から省略された形が主流になります。当初は切合の釜(主に真形釜)を直接掛ける形で、「透木」を使う物でしたが、やがて侘茶の普及、流行に従った事と後に「五徳」が発明されると様々な風炉が造られるようになります。その後でも同じ様な形式の風炉釜は造られ江戸時代に入っても「少庵」が好んだとされる「巴釜」は当初唐銅鬼面切掛風炉に載せるよう好みましたが、後に「巴釜風炉」と呼ばれる透木土風炉を好んでいます。
形状はやがて五徳を使うようになり変化していきます。当初は透木の面影を残す乳足の眉風炉、別名「奈良風炉」と呼ばれる物から「紹鴎風炉」「利休形の眉風炉」へと変化し、やがて不用になった「眉」を取り去った「前切風炉(頬当風炉)」の典型の様になってしまった「利休面取風炉」や「道安風炉」、雲龍釜を載せるために作られた「雲龍風炉」「紅鉢風炉」後に唐銅が有名になる「鳳凰風炉」などが次々と造られていきます。
江戸の初期にはほぼ「風炉と云えば土風炉」を指すようになります。金属製の風炉でなく瓦焼の手法を用いた素焼の陶器で造られた土風炉がより侘茶に見合うものとして俄然注目され、江戸初期の文献には書院には「金風炉(切合風炉)」四畳半(小間、侘茶の意)には「燻風炉(土風炉)」と規定されるようにまでなります。この「燻し(いぶし)」の意味は磨き上げて乾燥させた土風炉を素焼きの温度で焼き、最後に密閉し燻し上げ黒く焼く「黒陶」の技法を指して名付けられた物です。
決して陶器に漆を掛けた物ではありません。近年、稽古用にこういった物が出回っており「土風炉は痛みやすい」と言う風評を広げてしまいましたが、本来の土風炉は以外と強い物です。
土風炉が作られるようになり、やがて五徳の使用と土風炉の普及により釜も様々な形が鋳られるようになると共に風炉用の釜が分けられるようになっていきます。
江戸時代にはいると唐銅や鉄で好まれた風炉も多く登場します。遠州の「色紙風炉」如心斎の「鳳凰風炉(唐銅)」石州の「三日月風炉(鉄)」玄々斎の「常盤風炉(鉄)」等の他多くの好みがあります。遠州系の好物は多く江戸の釜師たちによって造られ風雅な趣があります。
一方近年では土風炉より多く見掛ける「前切風炉」「紅鉢」「眉風炉」など「唐銅や鉄製の風炉」は土風炉の形状を模倣した物で土風炉の代用品と言って良いでしょう。
その他風炉としては侘茶人が炉を引き出して風炉の代わりとしたものが原型とされる「板風炉」前述した鉄の鬼面風炉を上部を欠いた「窶れ風炉(欠け風炉)」を始め数多くの好みの風炉が有ります。
真行草の扱いや手分けは流儀により若干異なりますので詳しくは述べませんが千家では土風炉を「真」として扱うとされ、板風炉、鉄風炉、窶風炉は何れの流儀でも草として扱いまし「透木風炉」も軽めの扱いをします。
土風炉は水気を嫌いますので使用後は乾いた裂で良く拭いて汚れをおとして下さい。唐銅風炉はよく絞った雑巾で灰や汚れをよく拭いて乾いた裂で仕上拭きをします。箱に仕舞う時は釜と同じく何も包まずに仕舞って下さい。鉄風炉は灰を良く落とし熱湯を掛けてよく洗うようにします。乾燥は天日でするかドライヤーで良く乾燥させ仕舞います。意外ですが掃除機も有効に使えます。