中国での茶の湯
徽宗皇帝 庭園遊楽図 12C初期 (部分) |
我が国に招来された鎌倉時代当時の茶を点てる姿は、現在では建仁寺などで見られる「四頭茶礼」のようなものであったと考えられます。
はじめに、客は曲に腰掛け、着座します。給仕の僧が持ち出す大きな丸盆に載った茶碗(天目)とその托(天目台)が客に配られ、後から湯瓶(浄瓶)と茶筅が持ち出され客の目の前で茶が点てられる、という形式が取られました。
ここに於いては、風炉釜始め、後に皆具と称せられる「水指」「建水」「蓋置」「杓立」の存在は客の前に登場することはありません。
ですから今では「南浦紹明(なんぽじょうみん)(大應國師)」(一二三五~一三〇八)が文永四年(一二六七)宋より帰朝、その際、「台子一式」を持ち帰り筑前太宰府の崇福寺(そうふくじ)に住し、茶礼をも伝えたと言うことは、伝説であることは明白となっています。
最近の研究方法一つにに〈図像分析〉があります。古文書だけでなく、その当時描かれた絵画には比較的正確に風俗や文物が描かれており、それらの事象から分析、検証する方法です。
大徳寺蔵 五百羅漢図12C(部分) |
抹茶法が中国で完成する宗代の徽宗皇帝(一〇八二~一一三五)が描いた、庭園遊楽図(台北故宮博物院)にもテーブルで喫茶喫飯する主人(徽宗自身か?)と客が描かれ、茶を饗する従者は立ったまま、茶碗を天目台ごと持ち上げ、「何か」を入れています。
もう一人の従者は、炭火とおぼしき火の入った四角い炉の脇に立ち、点じた茶を受け取ろうと手をさしのべています。
その図では釜の姿はなく、「浄瓶」状のポットが、炉の中に二つ入れられています。ほかに杓立てや蓋置、建水に相当する物は見あたりません。水は銅製の大振りな鼎がその役割をしていると思われます。
この後日本において(宋から)皆具が伝わったとされる大徳寺に伝わる、南宋の絵師「周季常・林庭珪画、五百羅漢図(重文)」には、曲に腰掛けた僧侶たちが天目を台ごと捧げ、給仕の喝食が茶を点てるのを待っています。このような「四頭茶礼」方式の茶礼が描かれていることを考えると、鎌倉時代に「皆具」の存在があったとは考えにくい所です。
日本の茶の湯の始まり~皆具の発生
地蔵縁起絵巻14C (部分) |
日本発生の茶を見てみましょう。すでに、鎌倉時代に発生が見られる庶民のお茶とも考えられる「担い茶屋」や「小屋掛けの茶屋」が見いだされるます。
鎌倉時代~一三三三年に描かれたとされる「地蔵縁起絵巻」には、湯を沸かす風炉釜はどうやら、陶器製の物で、水指に当たる物は木地の「桶」が用いられており、此の形はその後も永らく継承されます。
次の南北朝時代、上流での「寄合の茶」の姿を、観応二年(一三五一)に描いた「暮帰絵詞」では、其の裏方の姿を描いています。
「暮帰絵詞」(部分)1351年 |
ここには、すでに「鐶付」のある風炉や「長板」の原型、さすがに、上流階級では「一服一銭」の茶店の様な木地の桶ではなく、なにがしかの「塗り物の桶」が水指の役割を果たして用いられているようですが「唐銅」の水指では無いことが見て取れます。
この南北朝の頃、盛んに作られたという「狂言」の中にも茶店を描いた物が登場します。その狂言の一つ「今明神」にはにわかに茶店を開こうとする、夫婦の滑 稽な姿が描かれています。ここで登場する風炉釜は「焙烙鑵子(ほうろくかんす)」すなわち、陶器製の風炉釜が登場し、熱効率の悪さからか、湯が沸かず茶の 立ちが悪い、などと揶揄されています。
釈迦堂縁起絵巻15C(部分) |
室町時代にはいるとますます茶店の普及が進み、応永十年(一四〇三)『東寺百合文書』には「~不可預置、茶具足~」と茶店が茶を商うための「茶道具」の存在を明らかにしています。
おおかたは台を用いず腰掛けて茶を飲む路傍の茶ではありましたが、客前に茶のための湯を沸かす道具や、それへ水を足す桶、湯水を掬う、柄杓などの茶道具が いち早く客前へ露出するのは、禅院の茶や、会所の茶よりも早いという事と考えられます。しかし一服一銭の茶店において、風炉釜や水桶(水指)の存在が前面 に出ることはあっても「皆具」や「台子の姿での点前」がこの時代以前に存在したか、といった史料は乏しいようです。
次は「皆具の発生」を見てみましょう。