茶道を学び始めた人々にとってまず必要と考えられる棚物とは何か?などと言う事ではなくいつものように先ず棚物の成立してきた課程と意味合いから考えていく事にしてみましょう。
何度かお話しているように、現在の茶の湯は室町時代「台子書院の茶」と呼ばれる茶礼形態から発展した物と考えられています。
これらは先に茶道史の項目でもお話した通り「南甫紹明(大應國師)」が入宋しその後、帰朝の際、「台子一式」を持ち帰り茶礼をも伝えた(AD1267年)と言う伝説があります。当然唐物であったとされています。しかしながら「南浦紹明入宋台子招来」説は現在では否定され始めています。
しかしながら室町時代を通して「書院」での茶の湯は、まず棚物の原型として第一に考えられる「台子」を中心とした流れがあることは否めない事実としてあります。
「真台子」をその原点として考えられていますが、室町初期の台子棚は現在の研究では幅一間ほどもあり現時点で考えられる「台子」とは少し趣を異にします。
その後、さまざまなサイズの中から現在伝えられているような大きさに集約されていったことが考えられます。いずれにしても「真塗四本柱」の台子のみがこの当時使用されたと見て間違いないでしょう。いわゆる「眞台子」の始まりです。
この「眞台子」を基本として「珠光」が上下の板を桐木地とし竹の柱を立てることを創案したとされる「竹台子」が作られたととの説があります。
近年の研究では「台子」が登場するのが「珠光時代」であり、竹台子の誕生はもう少し後になるようです。
ここまではある程度の大きさの規定はあったと思われますが、おそらく「紹鴎」「利休」時代に現在見られるサイズになっていったものと考えられ、代表は「不審庵伝来盛阿弥塗」の眞台子が一つの基準となります。
それ以前は「茶の湯神話時代」といってよく口伝による伝承も多く原型はあったにせよその後の茶道具のサイズを決定する台子の大きさも決定的なものではなかったようです。
利休を原点としてサイズも集約されていきます。これは「幅三尺五分、奥行一尺四寸、高さ二尺二寸」という物で様々な茶道具の寸法の基準ともなっています。
先の「珠光好竹台子」も同じ大きさとしています。実際は利休形の「炉用竹台子」以前の大きさであるということでしょう。
また利休好で「唐物からヒントを得た」ともいわれる「及台子」がありますが、ほぼ「真台子」と同寸です。
「竹台子」といえば皆さんよくご存じなのは「利休好」で台子地板から「風炉の部分」を除いて「炉用」に好んだものであり「元伯宗旦好及台子」も同様に「利休好」を小さくし炉に向くサイズになっています。
また元伯宗旦の好みといわれる「高麗台子」は炉専用です。
その後様々な「好」や「蒔絵」を施した物などが登場します。
台子とは別に室町時代の茶の湯の形式を伝えるものには「君台観左右帳記」や「南方録」の中にもある「書院」を使用した茶の湯が上げられます。
書院の棚の中に風炉釜を据え、各服(一人一人に茶を点てる)で出されたものが記録として残っています。
ですが「書院」を使用した点前を行っている流儀は寡聞にして存じ上げませんし、その内容は点前自体の伝承、記述はありません。