「ネットで楽しむ茶事十二ヶ月」=茶の七月(名水点)
名水点
茶の湯に使う水は、茶の味の決め手ともなる重要なものです。亭主はこれをことさら吟味し、名水と称される水をわざわざ汲みに出かけたり、遠方から取り寄せて準備したりすることもあります。
こうして特別に手配した水は、格別のごちそうとして、ぜひとも客に味わってもらいたいもの。そのようなときは、「名水点」という点前をして客をもてなします。 水をご馳走とするところから夏の点前として定着しているのが「名水点」です。点前としてではなく本来は当然茶事での趣向です。
「平茶碗」「馬盥茶碗」や「平水指」の「大蓋」や「割蓋」の物はご馳走としての「水」を強調する道具として用いられます。
ところが、今では夏の点前のように考えられる「名水点」も利休での逸話は異なっています。
利休 名水の會(現代語訳)
名水の茶事は事前に客に知らせて置きます。客の方もその心得で伺います。
床には画賛であれば、水に関係した掛け軸を掛けておきます。炉中に釜を懸けておきます。
客は初入りしたならば、床を拝見し、次いで点前座へ写り道具畳を一通り拝見し、定座に着きます。
亭主画茶道口を開け、一禮して、席中に入ります。
正客はこの際、名水茶事の挨拶して、
名水の地所を尋ねることを忘れてはいけません。(「銘々」とあるが正客が代表して尋ねればよいことで、瞑すに茶事に招かれた礼は述べるにしても、逐一連客がくどくどしく「名水」の挨拶をすることはないように思う。)
亭主は一巡の挨拶がすむと、炭斗を持ち出し、釜あげ、勝手へ持ち入ります。
小炮烙(通常は灰器を指す)を持ち出し、炉中を直し、(炉中を改める際は半田炮烙である)炭を多く入れます。
水屋へ持ち込んだ釜は入っていた湯を開け、名水を釜へ入れ、ぬれ釜にして、持ち出し、炉中へかけます。
炭斗、水屋へ持って入り炭手前を終わります。
懐石や菓子など通常通りだし初座を終えます。
客は、中立をします。
茶室が小間の三畳台目の場合、台目の隅棚の下の畳(棚か?)に茶入を置きます。
大目畳畳目十六目に木地釣瓶をおき、その蓋に青竹の引切蓋置を置きます。柄杓を横にして置きます。これが名水点の法式で、故実に習った方法です。
客は合図に従い、後座して各々、床の花、道具を拝見してから、着座します。
亭主、茶道口をあけ、茶碗を持ち出し、道具畳に座り、茶碗を左の方に仮置きします。
棚より茶入を下し、茶碗と組合せます。
水屋へ退き、建水を持ち出し、炉に向ひ、水指の上から柄杓、蓋置取、定座に置きます。
主客総礼し、居住を直し、手順に従い、名水で濃茶を立て終わって、正客は、名水に対する礼を述べます。(他流では後座になり名水点の飾付された姿で「名水」と知ることとなります。)
濃茶点前が終わり、道具の拝見を所望します。正客、道具一覽し、終て、直し置。
亭主、出、受取、勝手へ入、後、干菓子を出します。
後炭し、薄茶を点てる時、銘々の茶碗の内へ、水を加へ、点てます。これが名水点前の習いです。
この際、茶筅は白竹を用い、茶巾は端ぬひなしのものです。絞り茶巾にして仕組みます。
使帛紗は、あさぎ色、出帛紗は、きから茶を用います。
懐石の最後には青磁鉢に、水栗を入れ出します。(水あたりを防ぐ意味か?)
但し、濃茶の後には、白湯を所望します。
代表的、銘水の地を述べると
京では
宇治、三の間の水
宇治橋・三の間 |
(三の間は宇治橋特有のもので、その名前の由来は西詰から三つ目の柱間に設けられているところによるものです。三の間の一番古い記録は、永禄八年(一五六五)に松永秀久が千利休らを招いた茶会で、三の間から汲み上げた水を使ったというものです。その他、豊臣秀吉が茶会の際にはこの三の間から水を汲ませたという話は有名ですが、今のような張り出しが設けられたのは江戸時代に入ってからと考えられています。)
たゝすの水(糺の森の水を指すのか?)
(下鴨神社の境内にある社叢林である糺の森はこの一帯が山城国(山代国・山背国)と呼ばれていた頃の植物相をおおむね留めている原生林であり、ケヤキやエノキなどニレ科の落葉樹を中心に、約四十種・四千七百本の樹木が生育しています。森は賀茂川と高野川に挟まれるように広がり、南北に細長く、林床を縫ってこれらの川に注ぐ数本の清流があります。古くは『源氏物語』や『枕草子』に謳われる史跡です。
森を流れる小川は四つあり、それぞれ御手洗川・泉川・奈良の小川・瀬見の小川と名付けられています。御手洗川は湧水のある御手洗池を水源としていますのでここの水を指すのでしょうか。)
尼寺の水
(京都市南区壬生通八条角、児水不動明王の「児の水(ちごのみず)」の別名。本覚尼が、暗殺された夫 源実朝を弔うために建立した遍照心院(大通寺)の門前にあったので「尼寺の水」とも称され、眼病に霊験があるといわれるが、茶の湯との関連は不明です。
茶の湯に関わる「尼寺」と言えば境内には秀吉の北野大茶会に千利休が用いたという利休の井がある「西方尼寺」があります。天台真盛宗に属し,文明年間(一四六九~八七)に真盛を開山として大北山の地に尼僧の道場として建立しました。
この場合の「尼寺」とはどちらを指すのか不明です。)
か(さの誤)めがひの水(醒ヶ井(さめがい))
(京の名水として平安時代より知られ、源氏の邸いわゆる六条堀川館の中に取り入れられていました。
室町時代には珠光がこの畔に住み茶道を興し足利義政も来遊したといわれ、江戸初期元和二年(一六一六)五月、織田有楽斎はこれを内径二尺四寸の丸井戸に改修します。
その後天明の大火で埋もれますが、寛政二年(一七九〇)、薮内家六世によって修補され、その碑が七世によって建てられていましたが、丸井戸碑とともに、先の大戦末期の民家の強制疎開とともに撤去されました。)
柳の水
江戸時代・柳の水の様子 |
(平安時代末期には崇徳院(一一一九~六四)の御所があった所で、清泉があり柳水として有名でした。利休も茶湯に用い、側に柳樹を植え直接陽が射すのを避けたと伝えられます。)
西王寺の水
(一六六〇年代に近衞基熙が建立したお寺で名水との関係は不明です。)
などが挙げられます。
京都は琵琶湖の水量に匹敵すると言われるほどの伏流水が有り、御所三名水(染井、県井、祐井。)など世に知られた名水が多くあるにもかかわらず、前記の水が選ばれているのは、情報不足なのか?、大都市を例に挙げるためか大坂、江戸はむしろ水はあまり良くない都市としても知られています。)
大坂では
天王寺の水
(大阪では上町台地は、生駒山からの伏流水が地下を通り、良質な井戸水に恵まれた地です。大坂の町がたびたび飲料水不足に悩まされていた時代も、豊富な水が人々の生活を救いました。特に重宝されていたのが、「天王寺七名水」「逢坂清水」と名高い各井泉。天王寺七名水は、金龍、有栖、増井、安井、玉手、亀井、逢坂、の七つの井戸を指します。残念ながら現在は、金龍と亀井の水を残して枯れ果ててしまいましたが、地域の人々の協力を得て、井戸枠などを残しているものもあります。
亀の水
前述した天王寺七名水の亀井を指したのでしょうか、茶席で珍重されていたという亀井の水は四天王寺の金堂から湧き出ています。
単に亀の水というと隣の兵庫県明石市の湧き水として有名な「亀の水」があり一六九九年ころまでには水が出てたようですがこちらではないでしょう。
江戸では
井戸の清水
江戸時代のはじめ、下町一帯の井戸は塩分を含み飲料に適する良水が得られず付近の住民は苦しんでいました。
正徳元年(一七一一)、白木屋二代目当主の大村彦太郎安全は私財を投じて井戸掘りに着手しました。翌二年、たまたま井戸の中から一体の観音像が出たのを機に、こんこんと清水が湧き出したと伝えられています。以来、付近の住民のみならず諸大名の用水ともなって広く「白木名水」とうたわれてきました。
御茶の水
(この地の湧き水を徳川秀忠の茶の湯に供したことからいう〕 東京都千代田区神田駿河台と文京区湯島との間を流れる神田川周辺の地名でもあります。
姫の井の水(姫ケ井?)
(江戸の井戸の多くは江戸湾が近い各町内では、井戸を掘っても潮気を含んでいるので使用に耐えない物も多かったようです。そんな中、銘井として麹町すなわち江戸城外縁にあった井戸の中に「姫ケ井」がありこれを指すとも思われますが「近隣の「柳の井」や「桜の井」に比べ著名とは言い難いようです。大坂、江戸のいずれにしても地下水系は、あまり良くなく何をもって基準にしたのか不明です。)
古歌
名水の水のかるみは湯にて志る
金気、おもみや うつり香もなし
茶湯にとって「水」を選ぶことは大変重要であったようです。前半の茶事に関わる記述は『南方録』とも大変類似しています。
「名水遠来ノ會ハ、客二前ヨリシラセクルガヨシ、客モ常ヨリ早ク行テ、始終ノハタラキヲ見ルヲヨシトス、客著座有テ、水ノ挨拶シテ、釜ヲ引アゲ、勝手へ持入、底取ハンダ運出、炉中改メ二炭シテ、水ヤヨリ名水ヌレ釜ニテ持出カクル、サテ其炭ニテワキ立タリトモ、今一炭クハヘテ水ヲモツギソヘ、湯ヲ煉テヨシ、炭クハヘタル上ニテ懐石出スべシ、右待遠ナルユヘ、暁、夕サリナドノ心得スル也、
香ニテモ又ハ短尺・硯ナト出シテ和哥・連歌等モヨシ、客ニヨル也、右ノクハユル炭ノ時、別ノ炭斗ナドクミカヘテハアシ、、初ノ炭ノ残ノマ、ヨキ也、休ニテ醒ヶ井ノ水汲ニヤラレシ時ノ倉、汲チッノマヽ、ワラノシべニテ底ヨリ蓋ニカケテ封シ来ルヲ、ソノマ、用ラレシコトアリ、コレハカノドウコノ下ヲスノコニシタルスノコノ上二置テ、小雲龍引アグテ即ソコニテヌレガマニシテカケラレシナリ、メゾラシキハタラキ也、」と釜に封印をする「責め紐」の記述にまで及んでいます。
官休庵の「名水点」の飾付 |
その他各流儀での様子を見てみると裏千家では木地の釣瓶の水指に注連縄をすることで「名水」であることを表します。官休庵では、釣瓶の水指の上に柄杓を斜めに飾るか、名物の蟹の蓋置を飾っておきます。藪内流では点前畳に柄杓・蓋置を飾り付けておくことが「名水点」の合図になっています。
藪内流では、炉、風炉の季節を問わずにできるそうです。
この点前は客はこの初飾りの点前座を見て、本日の水が名水であることを知ります。多くの流儀ではことさら「名水」が趣向であるとは事前には知らせていないようで時間を知らせる「朝茶事」や「口切り」など客側が特別な用意や心構えを必要としないためでしょう。肝心なことは、そのことを客が知っているかということ。やはり茶湯にはそういった知識が必要になります。
裏千家では、お水を頂いたのち、通常の濃茶を点てます。官休庵流では、まず名水を使った濃茶の後、名水のことを尋ねて、白湯を所望して頂きます。
いずれもお茶を出しませんので、茶巾の匂いを消すため茶碗を茶巾で拭いた後、再びお湯をいれて茶碗を清めます。そして湯水をいただいた後、特別な水を用意してもらったことに謝意を表し、水の由来を尋ね、さらに白湯を所望して、その味を賞玩するのです。
なにはともあれ「灰洗い月」
炎天下での灰の手 |
その暑さ本番の時期でなければ出来ないのが「炉灰洗」です。この月の半ばに近づくと南から、また西から「梅雨明け」の便りが聞こえます。
梅雨明け十日は「カッー」と暑い日が続くといわれます。茶人として「土用」の極暑であるこの時期、冬の炉開きのために灰洗いをするのが「茶人の真骨頂」だと信じて永年欠かさずやっています。
炉の灰は粒子になることで水分を吸収保存し、炉中において熱が加わることで水蒸気を発生させ対流を促進させ火の熾りを助ける役目を担います。
いにしえの茶人は理屈ではなく、そのような良好な灰になれば「さらっと」蒔ける灰になる事を体験的に会得し炉灰は粒が大きく灰匙で掬って綺麗に蒔けるようになる灰を良しとしたのでしょう。
炉灰の作り方には古来より様々に言い伝えや伝授がありますが、とにかく洗う、揉む、乾かす、が必要です。洗うには水が必要です。
この水が冷たすぎたのでは作業がしにくい、早く作業を済ませるためには早く乾いた方がよい、太陽の日差しによって灰自体を日光消毒する、などの条件を満たすのがなんと言ってもこの時期に限るようです。