石州流の歴史と茶道を学ぶ。
利休以前、に始まる茶道の歴史、利休、道安、宗仙、石州と続く石州流の道統、
またそれ以降の分派あるいは、今学んでいる流派へ繋がることであり、
歴史を再認識することが大切だと考えます。
一、片桐石州公について
片桐石州の素姓
石州は姓の片桐氏は清和源氏の出で、信濃の国伊那郡片桐村から起こり、のちに近江の同に移住し、衆浅井郡小谷山域主の浅井 長政に仕えました。
小谷山が織田信長に攻められて落城し、浅井氏が滅亡したのち、豊臣秀吉に属して小姓となったのが、片桐克元、後に豊臣秀頼の家老とし て、賤ヶ岳七本槍として勇名を馳せました。
慶長十年(一六〇五)克元の弟主膳正貞隆と「今井宗久の孫娘」の子として、摂津茨木に生まれました。幼名を鶴千 代、長じて良三郎、初名は貞俊、のちに貞昌と改めています。三叔宗關と号しています。
寛永元年(一六二四)二十歳のとき、従五位下石見守に就任しましたので、石見守を略称して石州といいました。
寛永四年(一六二七)父の死と同時に、その道領大和・河内の両国で一万六千四百石を継ぎ、大和の国小泉の域主となりました。
寛 永十年(一六三三)京都東山の知恩院修復作事奉行に任命され、以後寛永十八年まで綾小路柳馬場に住することとなります。石州は少時から茶に親しみ、「桑山 (左近)宗仙」について茶技を学ぶこと数年にして茶道の奥義をきわめ、真・行・草三体の茶法を伝授されたといわれています。
師の桑山(左近)宗仙とは二十七歳で死別することとなります。後には求心的な茶を究め侘茶の近世化を完成したといえるでしょう。
この間、金森宗和、小堀遠州、松花堂昭乗らと交友、大徳寺、玉室宗珀、玉舟宗璠 和尚に参禅、大徳寺山内に師のために高林庵を創建、三叔宗關の道号を授かります。寛文三年(一六六三)には大徳寺の末寺として大和小泉に慈光院を建立、玉舟を招じ開山としています。
徳川将軍家の茶の湯は、一般に「柳営御物」と呼ばれる莫大な道具の蒐集によって、つとに有名ですが、徳川家は秀忠・家光・家網の三代にわたって、将軍家の茶道指南を取りました。そしてこの任にあたったのが、織部・遠州・石州の数寄大名でした。
寛文五年(一六六五)十一月、小堀遠州の流れを汲む「船越伊豫守永景(一五九七~一六七〇」と共にその任に就いたとされています。(徳川実記)
片桐石州は小堀遠州のあとを継いで、四代将軍徳川家綱の茶道役となりましたが、その茶系は、利休の長男千道安からその弟子、桑山宗仙へ伝わった道安流茶道の流れをくん でいるとされています。
石州は宗仙の弟子で、さらに石州流という一流派を開き、その茶風は一時一世を風靡したといってよいでしょう。。しかし四代将軍家網 の治世を最後にして指南役が断絶しています。それは、この期以後将軍の権威が高まり、指南指導の用なしという意識が生まれ、それはとりもなおさず徳川の治世磐石の証であったということになりましょう。
石州は柳営の茶道指範として大名茶の指導的立場にありましたが、本質的には利休風の「わび茶」を志 向していました。その証左となるのは、石州の茶が、道安を経て師桑山左近から伝授された「一畳半の伝」を究極の茶法として重大視しているということです。
すなわち、利休の主張するわび茶道の究極の点前が「一畳半」にあると考えていた石州は、その精神のひとつを、自然のままに「さび」た状態である、ととらえ ていたのでしょう。妙法院御門跡にあてた文章で次のようにいっています。
茶の湯さびたるは吉、さばしたるは悪ししと申事。大名などのわびたる者のまねをしてさばしたるは相応せぬ事に候間、さばしたるになり申すべき哉と仰せ下されて大方あき申し候
「大名などがわび茶人のまねをして、さびた風情を見せようとするのは、「さび」とはいえず「さばし」た茶だということになりますから、注意すべきことだ」と石州公はいうわけです。
一方現代の石州流を標榜する人々はこの語を恣意的に捉え、殊に「さばした」ことにならないかと臆病になるように思われます。むしろ堂々と「大名茶」で有り、且つ「侘茶」を貫く思いで「石州流」を継承して頂きたいと思います。
「一畳半の伝」では、茶室は一畳台目、紙表具の墨蹟、白高麗か赤楽のわれを継いだ茶碗、一汁二葉の懐石をよしとする徹底した「わぴ」茶法の追求を要旨とした主張をつづけています。大名茶といわれる石州の茶の湯は今後再考する必要があるのではないでしょうか。
大名を中心に多くの門人を輩出します。将軍家綱はじめ、堯然法親王、大名では松浦(まつら)鎮(しげ)信(のぶ)、家老の藤林宗源、伊達家茶道の清水動閑(小猿動閑)、大西閑斎、大徳寺の怡渓宗悦など、その階層も多岐にわたっています。
またその「壁書」では
茶道をしているすべての人は流儀によらず、どのような境遇であろうと等しく同朋と心得ましょう。
茶道に志ある全ての人は自らの流儀におごる事なく、別の流儀だからといって、それは他流がやることだから、自分とは関係ない等と無視する事もあってはなりません。なぜなら全ての流儀が利休居士に発した茶道で有り、何らかの共通性があるからに他なりません。
ですから自分の師匠だけでなく、例えば別の流儀の流祖などが行った「作為」「趣向」「おっしゃったこと」等もよく見聞きしておきましょう。残念ながら他流の先師の言葉の方が「自らの師匠」の言葉より重いことが多いのは世の常です。かといって他流の真似をしろというのではありません。自らの流儀の歴史を深く理解したところから我々の行うべき茶湯のあり方をよくよく調べ研究し、深く考え、その上で言動や行動をおこしましょう。もの知らずは恥の元です。
我ら武家茶道の茶席の道具は、用いるもの全てにおいて「格式=分限相応」を考慮します。たとえ露地に用いる道具や懐石の食器類であっても「武家茶道」を行う格式に鑑み適正で恥ずかしくないように揃えておきます。決して間に合わせや、あり合わせではいけません。それこそが武家茶道の誇りですし、それがなくては「武家茶道」を名乗る資格はありません。
茶事などの約束を軽く見てはいけません。あなたをお呼びすることを何日も、あるいは何年も考えたあげくお呼びしているのだと言うことを深く心に刻み、また今度行けばよいだろう等と、「一期一会」の精神を心得違いすることはもってのほかです。
茶湯でもっとも大事な「服加減」のためにも、炭火を熾し湯を沸かす努力を忘れてはいけません。これは利休居士よりの最も大切な教えで有り、そのためには「炭」や「灰」の重要性を忘れてはいけません。風炉の灰形や炉の灰の手入れは茶人たる必須の条件です。
茶事における全ての《道具》にこれほどまでに神経を注ぐのには全て「ただ一碗の茶を供するため」だけのことです。であるが故に、この一碗に心を込める重要性を深く理解しましょう。
これらのことを総合的に理解した上で日頃からの人生を心掛けることによってすばらしい文化的で教養豊かな生活が送れることでしょう。
片桐石州三叔宗関師 壁書 現代語翻訳ー茶湯・晴山
千家とも、深く交わり、元伯宗旦、またその子、江岑宗左、仙叟宗室とも交流をしています。茶の湯の精神は遠州の考えより、より侘びに徹した、利休流の茶の湯を目指したことも、これらの交流に原点があったと考えられるようです。