石州の茶の湯の姿を「逸話」を通し知る。
石州流の根本を知るには残された逸話を通して、
この流儀の有り様を知る必要があるのではないでしょうか。
石州公の茶の湯に対する豊かな感性を正しく理解し茶湯に臨みましょう。
二、石州流越後怡渓派略譜
新潟で最も盛んな石州流茶道の茶系を「石州流越後怡渓派」といいます。ではどういう経緯で現代に至るのでしょうか。
派祖、怡渓宗悦和尚
流派の名称にある、怡渓とは「怡渓宗悦(一六四四~一七一四)和尚」のことをさします。
怡 渓和尚の自出は武蔵国の人で、その後大徳寺に入り、記録に登場するのは元禄六(一六九三)年二月十七日五十歳の時。大徳寺代二百五十三世として出世、同年 三月二十日、開堂、麻布広尾の祥雲寺の景徳院の第三世となり東江院に住します。元禄十五(一七〇二)年に、東海寺輪番職を勤め、正徳二(一七一二)年久留 米三十二万石藩主有馬頼元の建立寄進による高源院の開山として入山。翌々年元禄十五(一七一四)年八月高源院にて遷化、寿七十一歳。享保八(一七二三)年 四月二日、中御門天皇より「法忍大定禅師」の勅諡を賜ることとなります。
怡渓宗悦が片桐石州から茶法伝授を受けた時期に関しては明確な史料がありません。
前述したように五十歳までの経歴は資料がないといって良いほど不明な点が多いのです。石州公が知恩院修復作事奉行に任命され、以後寛永十八年(1641)まで綾小路柳馬場に住することとなる時代には、まだ生まれていないと考えられ、その後、領地小泉からたびたび京都を訪れ、千家との交流を深めた時 期、また、大徳寺、玉室、玉舟老師への参禅の際などにおける接点が考えられます。
石州三百箇条の伝承から石州公から直接の教授は受けていると推測は出来ま すが、石州の没年には未だ弱冠二十九歳の恐らく修行僧の怡渓にとって、その茶法の全てを受け継ぐには時間が足りないと考えられないでしょうか。
このことに関しては野村瑞典氏も「じっくり茶の湯に取り組み為には藤林宗源が片桐石州没後京都八坂の屋敷で過ごした時期におこなった物ではないかと推論」されています。
則ち、京都で茶道の修業を積んだ、と考えて良いでしょう。
石州からの伝播を受けた伊達藩清水道閑を始祖とする清水系の伝書の多くは台子を七段と伝えるのに対し、石州流越後怡渓派では九段との説をとり、和泉草との記述と一致する点からしても藤林宗源からの伝授の影響が大きい物と考えられます。
よしんば怡渓宗悦が江戸へ移った後深く伝承を受けるとなれば、当時江戸での石州流の伝承者は松浦鎮信であり、藤林宗源から直接「和泉草」を受け取った人物でもあり、加えて伝承の影響をえた物とも考えられます。何れにしろ藤林宗源系の石州流を伝承したことは確かなようです。
石州流越後怡渓派
石州流越後怡渓派は、新発田藩主溝口家をその源流として長く新発田藩に伝えられ、広く新潟県下越地方に伝わった茶系です。
溝口氏が越後新発田の地に配賦された後、三代藩主宣直(一六〇五~一六七二)は遠州流の茶を嗜み、石州の茶会に参加をしています。新発田に残る「清水園」は元禄年間に完成した溝口家下屋敷でその庭園は遠州の弟子縣宗知の作として知られています。
宣直の嗣子、四代重雄(しげかつ)悠山公(一六三三~一七〇八)が怡渓宗悦に付き伝授を受けた以後、石州流怡渓派を代々藩の茶の湯とすることになります。
重雄公は、怡渓宗悦の門下の初代伊佐幸琢(一六七三~一七四五)の元へ長谷川如水を初の茶道役として門下に付かせたことを嚆矢に、溝口家七代直温候(主膳)は新発田藩江戸定府茶道渋谷意斎を(生没不詳)二代伊佐幸琢(一七〇六~九五)にとされますが、新発田藩溝口家、十代直諒景山(翠濤)公(一七九九~一八五八)は松平不昧公の茶道指南でもあった、三代伊佐幸琢(半寸庵?~一八〇八)に新発田藩江戸定府茶道阿部休巴(一七八四~一八五三)を付かせ伝授を取得、自らも伝授を受け、怡渓系、伊佐派系の茶の湯を継承し、新発田での石州流越後怡渓派の基礎を作り、茶事にも熱心であったため越後怡渓派の中興の祖と捉えられています。
明治維新後一旦衰退しますが阿部休巴の弟子で同じく新発田藩茶堂、田宮休斎(一七八八~一八六四)から同、高津半閑庵(一八〇七~一八九一)を経て坂井毎日庵(復太郎一八五九~一九三四)が伝授を受けます。毎日庵は嘉順派五世谷村嘉順や明治三十五年裏千家十三世圓能斎に師事するほか、石州系では南方録の研究で知られる土佐清水派の野崎兎園、岡田妙々らと交流、後に新潟で活躍する事となり、学校茶道の普及などに勤め、新潟市以北の地域は「茶道イコール石州流」と思われるほど普及することとなります。
溝口家のお膝元新発田でも阿部休巴の弟子であり、翠濤公からも直接伝授を受けた、新発田藩茶堂、藤田友巴(一八二一~一八六六)によって、受け継がれ、塚野怡然庵=沢半入庵=青木方寸庵、と伝承され、新発田の怡渓派はこの系統から発したものです。
大正七年、翠濤会を結成、戦後は新潟と新発田翠濤会との合流で、高橋六二朗を初代会長として新潟石州会を結成、昭和三十三年「「手引きの糸」発刊、翌、三十 四年に解散、新潟怡渓会の発足などを経、石州流越後怡渓派は現在存在する石州各派の中でも最大規模の茶人数を誇っています。