柄杓
点前用は竹製で、差し通しと月形に分けられます。
差通しは杓立に飾るので荘柄杓ともいいあます。
月形は切止の切り方に二種あり、身のほうを斜めに切った身削、皮目のほうを斜めに切った皮削で、現在では、皮削で合が大ぶりのものを炉用に、身削で合が小ぶりのものを風炉用に分けて使っていますが、昔は、釜の口の大きさに合せ、個人の好みに応じて作らせていました。 利休形十二の柄杓などがその例で『新修鉄中条話』に述べられています。 利休好みのほかに古田織部・千宗旦ら好物は数多くあります。
作者には黒田正玄が上げられます。初代正玄は、元々武士で丹羽長重に仕えていました。しかし関ヶ原の戦いで丹羽氏は西軍に付き改易、浪人となったために剃髪して大津に移り住み、竹細工職人となりました。正玄の柄杓づくりの師匠は豊臣秀吉に柄杓を納めて「天下一」と称されていた一阿彌という醒ヶ井の井戸守であったといわれます。
その後竹細工が評判を呼び、京に転居。小堀遠州の元で茶を修行し、その推挙により江戸幕府御用達の柄杓師となります。遠州は大名への仕官も薦めたが、それは固辞。また、大徳寺江月宗玩の元に参禅していたことで、千宗旦に紹介されて柄杓を納めるようになります。
茶道界・江戸幕府とのつながりを作り、以後明治維新に致るまで、歴代三千家・将軍の御用達柄杓師となります。
竹釘には側面に柄杓、奥側に差通しの柄杓等があれば掛けておきます。
ほかに柄杓としては他に手水柄杓・水屋柄杓などがあります。